岩手へ・・・②陸前高田 [学習]
岩手へ・・・シリーズ2回目です。(全7回)
岩手県交通さんが催行している
「陸前高田・大船渡号」復興応援ツアー
の乗車記のつづきです。
小高い場所にある、陸前高田市役所仮庁舎での休憩の後、坂を下り、いよいよ市街地に入りました。
食い入るように、車窓にへばり付き、どこまで津波が来たのか凝視しました。
・・・たどたどしいバスガイドさんの説明は耳に入りません。
続きます。
高田街道を下って、まず目に入った惨状です。
何処を撮ったのか、googlemapで確認したところ・・・酔仙酒造さんがあった所のようです。
大きな地図で見る
酔仙酒造㈱さんは、後で乗り込んで説明してくれたボランティアガイドさんによると、陸前高田の人々に愛されているお酒だそうで、被災4ヵ月後には一関市千厩に仮工場を設け、醸造を再開したそうです。瓦礫の鉄骨に酒樽がぶら下がっていたのが、復興のシンボルとして取り上げられたとのことです。
ポン酒は苦手ですが、いつか飲んでみたいお酒です。
場所的に、JR大船渡線が近いようですが、路盤もろとも流出してしまっているため、どこをどう通っていたのか?さっぱりわかりません。
陸前高田の海岸沿いにそびえ立つ、キャピタルホテル1000とタピック45(道の駅高田松原)が見えてきました。
今から10年前、この浜沿いの国道を通ったことがあり、そのことを思い出しましたが、記憶と現状が噛み合いません・・・とても悲しいです。
戦火の後なら、焼け野原・・・ですが、これはなんと形容したらよいのやら?思いつきません。あまりにも、ショック過ぎて茫然と言うか、考えられません。
また、昨年4月に気仙沼を訪れた際、あまりにも瓦礫が凄まじかったですが、この陸前高田市街地も、同様だったと思います。しかし、今や瓦礫の整理が進み、現状はこうなっていますが、以前は店舗、家屋が結構立っていたわけで・・・それを、一気に押し流した津波の破壊力=海中深いところから地上の低いところに向かって遡上する時のエネルギーは、まるでバケモノです。
タピック45です。ここで震災語り部=ボランティアガイドさんがバスに乗り込み、説明を始めてくれました。
陸前高田市観光物産協会の所属の方のようです。実直なお方で、とても好感が持てましたが、この方も被災者なのかと思うと辛いです。
バスガイドさんのカツゼツが悪くて、紹介の際、お名前とかよく聞き取れませんでした(--#)
実は、このバスツアー・・・
時間が非常にタイトで、既に語り部さんが乗り込んできたときには、時間がまきまきでした。
それにしても、このなんにも無さ・・・
ここに生活があったのか?と思うとやりきれなくなります。
陸前高田でお亡くなりになられた方が約1600人、行方不明が今だ100人弱と聞きましたが・・・
それにこの状況、あまりの被害に言葉が無いです。
また、震災当日、目を・・・耳を疑うようなTVからの陸前高田市の情報に「嘘だ・・・」と思ったものでしたが、そのことを思い出しました。
街の中心にあった、陸前高田市庁舎に来ました。
3階の天上まで津波が来たそうです・・・
助かった人は4階と屋上にいたそうですが、市職員も多数命を落としたようです。
震災前、津波警報があっても僅かな海面の上昇だったので、今回も・・・という固定観念がどこかにあったそうです、だから、ココまで避難すれば・・・と皆が思っていたところに想定外の大津波が来たので、被害が大きくなったとのことでした。
語り部さんから説明を聞き、黙祷を捧げました。
娘。さんはただ、ただ茫然といった状況でした。
まだ瓦礫が堆く積まれているところもありました。
「瓦礫と言っても、これ・・・ゴミじゃなく生活そのものだったんですよ」
語り部さんの言葉は、胸に突き刺さりました。
また、
市庁舎の向かい側に市民会館があり、当時、多数避難していたようです。
この建物も大津波に飲まれ、避難していたところ、命を落とされた方が多数いるようです。
・・・めちゃめちゃです。
市庁舎を後にし・・・
有名な「一本松」を見ることとしました。
一本だけ残った高田松原の松
一生懸命存命措置を施し、昨年の春には葉が出たようですが・・・
現在は塩害にやられて生存は絶望的なようです。
でも、何らかの方法で保存出来ないか?検討中のようです。
語り部さんは、川を挟んで反対側の場所から「一本松」を説明してくれました=何故この松の木1本だけ残ったのか?複合的な要因があるようです。
例えば、すぐ前にあるユースホステルの建物、これで一本松の手前で津波が分かれたとかバリケードのようになったらしいです。
タピック45で語り部さんとお別れです。
説明ありがとうございました・・・一言一言が重みがありましたが、とてもわかりやすかったです。
良い出会いだったと思っております(vv)
バスは陸前高田市を後にし・・・
桜が満開の・・・
隣の大船渡市の碁石海岸に向かうのでありました。
(つづく)
岩手県交通さんが催行している
「陸前高田・大船渡号」復興応援ツアー
の乗車記のつづきです。
小高い場所にある、陸前高田市役所仮庁舎での休憩の後、坂を下り、いよいよ市街地に入りました。
食い入るように、車窓にへばり付き、どこまで津波が来たのか凝視しました。
・・・たどたどしいバスガイドさんの説明は耳に入りません。
続きます。
高田街道を下って、まず目に入った惨状です。
何処を撮ったのか、googlemapで確認したところ・・・酔仙酒造さんがあった所のようです。
大きな地図で見る
酔仙酒造㈱さんは、後で乗り込んで説明してくれたボランティアガイドさんによると、陸前高田の人々に愛されているお酒だそうで、被災4ヵ月後には一関市千厩に仮工場を設け、醸造を再開したそうです。瓦礫の鉄骨に酒樽がぶら下がっていたのが、復興のシンボルとして取り上げられたとのことです。
ポン酒は苦手ですが、いつか飲んでみたいお酒です。
場所的に、JR大船渡線が近いようですが、路盤もろとも流出してしまっているため、どこをどう通っていたのか?さっぱりわかりません。
陸前高田の海岸沿いにそびえ立つ、キャピタルホテル1000とタピック45(道の駅高田松原)が見えてきました。
今から10年前、この浜沿いの国道を通ったことがあり、そのことを思い出しましたが、記憶と現状が噛み合いません・・・とても悲しいです。
戦火の後なら、焼け野原・・・ですが、これはなんと形容したらよいのやら?思いつきません。あまりにも、ショック過ぎて茫然と言うか、考えられません。
また、昨年4月に気仙沼を訪れた際、あまりにも瓦礫が凄まじかったですが、この陸前高田市街地も、同様だったと思います。しかし、今や瓦礫の整理が進み、現状はこうなっていますが、以前は店舗、家屋が結構立っていたわけで・・・それを、一気に押し流した津波の破壊力=海中深いところから地上の低いところに向かって遡上する時のエネルギーは、まるでバケモノです。
タピック45です。ここで震災語り部=ボランティアガイドさんがバスに乗り込み、説明を始めてくれました。
陸前高田市観光物産協会の所属の方のようです。実直なお方で、とても好感が持てましたが、この方も被災者なのかと思うと辛いです。
バスガイドさんのカツゼツが悪くて、紹介の際、お名前とかよく聞き取れませんでした(--#)
実は、このバスツアー・・・
時間が非常にタイトで、既に語り部さんが乗り込んできたときには、時間がまきまきでした。
それにしても、このなんにも無さ・・・
ここに生活があったのか?と思うとやりきれなくなります。
陸前高田でお亡くなりになられた方が約1600人、行方不明が今だ100人弱と聞きましたが・・・
それにこの状況、あまりの被害に言葉が無いです。
また、震災当日、目を・・・耳を疑うようなTVからの陸前高田市の情報に「嘘だ・・・」と思ったものでしたが、そのことを思い出しました。
街の中心にあった、陸前高田市庁舎に来ました。
3階の天上まで津波が来たそうです・・・
助かった人は4階と屋上にいたそうですが、市職員も多数命を落としたようです。
震災前、津波警報があっても僅かな海面の上昇だったので、今回も・・・という固定観念がどこかにあったそうです、だから、ココまで避難すれば・・・と皆が思っていたところに想定外の大津波が来たので、被害が大きくなったとのことでした。
語り部さんから説明を聞き、黙祷を捧げました。
娘。さんはただ、ただ茫然といった状況でした。
まだ瓦礫が堆く積まれているところもありました。
「瓦礫と言っても、これ・・・ゴミじゃなく生活そのものだったんですよ」
語り部さんの言葉は、胸に突き刺さりました。
また、
市庁舎の向かい側に市民会館があり、当時、多数避難していたようです。
この建物も大津波に飲まれ、避難していたところ、命を落とされた方が多数いるようです。
・・・めちゃめちゃです。
市庁舎を後にし・・・
有名な「一本松」を見ることとしました。
一本だけ残った高田松原の松
一生懸命存命措置を施し、昨年の春には葉が出たようですが・・・
現在は塩害にやられて生存は絶望的なようです。
でも、何らかの方法で保存出来ないか?検討中のようです。
語り部さんは、川を挟んで反対側の場所から「一本松」を説明してくれました=何故この松の木1本だけ残ったのか?複合的な要因があるようです。
例えば、すぐ前にあるユースホステルの建物、これで一本松の手前で津波が分かれたとかバリケードのようになったらしいです。
タピック45で語り部さんとお別れです。
説明ありがとうございました・・・一言一言が重みがありましたが、とてもわかりやすかったです。
良い出会いだったと思っております(vv)
バスは陸前高田市を後にし・・・
桜が満開の・・・
隣の大船渡市の碁石海岸に向かうのでありました。
(つづく)
高田松原の一本松にはなんとか頑張って生き続けてほしいですね。
震災直後に比べると瓦礫の撤去は少しは進んだみたいですがまだ
まだ酷い状況ですね。
by でぶねこ (2012-05-17 13:36)
最近は現地の様子をテレビ等で拝見する機会が減ってきたところで、貴重な写真を拝見させて頂き、勉強になりました
by 駅員3 (2012-05-17 14:34)
津波というものは 恐ろしく破壊力があるんだと
me-coさんの写真から分かります。
人は やはり自然の中で生活しているんだと
つくづく思います。
by furu (2012-05-17 16:14)
只々、胸が痛みますね・・
現在進行形、日本人全員の問題として
考えていかねばなりませんね。
by zak (2012-05-17 19:25)
貴重な記事です。
感謝致します。
by とり (2012-05-17 19:47)
>でぶねこさん
一本松のあの場所は、かなり地盤も沈下しておりまして、塩害がなかなか食い止められず、残念ながら・・・のようです。ただ、松ぼっくりから芽が育っているので、種は受け継がれると思います。瓦礫の撤去がなかなか進まないのは、政治のせいですね(--#)
>駅員3さん
マスコミなんて、熱しやすく冷めやすいので、震災のことも0に近いくらいにフェードアウトですね=でも忘れちゃいけないです。勉強になったなんてそんな・・・恐縮です。
>furuさん
語り部さんが言ってましたが、三陸の人たちは、過去の災害に学び普段から訓練していたそうですが、今回のような千年クラスは想定外のことで・・・なんとも残念です。人は自然の中で生活している・・・おっしゃるとおり、です。
>zakさん
本当に、現地に行くと胸が締め付けられます。涙が止まりません。あとは1日でも早い復興のために偏見やエゴを棄てて日本全国、協力しなければならないのに・・・東北というだけで毛嫌いされるという実態を聞くと怒りを覚えます。
>とりさん
貴重・・・といわれると、こっ恥ずかしいです。
思いの半分しか記事にできなかったような気がしますので(__;)
by me-co (2012-05-18 00:58)
言葉にできません。
現実、写真が言葉を詰まらせます。
by yasu (2012-05-18 20:42)
こんばんは
テレビや新聞などでその惨状を知っていても
身近な方のリポートはよりリアルな感じがします
忘れてはいけないことですね、胸に刻みました
by gardenwalker (2012-05-18 23:56)
>ィyasuさん、言葉に出ない、ただ立ち尽くすだけです。
車外では、シャッター押したのがやっとですね。
>gardenwalkerさん、プロは酷いのを撮ろうとしますからね・・・その証拠に、一定の整理が付いた今はあまり取り上げていませんから。おっしゃるとおり、ずーっと心に刻んでおかなければなりません。これは。
by me-co (2012-05-19 01:12)